缶詰

インターネットをしずかに使っていただきありがとうございます

しずかなインターネット(しずイン)というブログ・プラットフォームがある。「しずか」を標榜していて、サイト内インタラクションやマネタイズ要素が少ないので、スパムも少ない。普段見ているBlueskyにもしずインフィードというのがあって、そこでいろいろ投稿を見ている。

そこで読んだ記事がおもしろかったので、リンクを貼っていたBlueskyのポストをいいねしたら、数時間後に記事が消されてしまった。その記事の筆者にとって、俺のいいねはフィードを介した不幸な衝突事故だったのかもしれない。


しずかなインターネットの使い方 によれば、しずインのコンセプトはこうなっている。

ここは、Twitterやnoteのような賑やかな広場ではありません。ここは、あなたのパーソナルな部屋のようなものです。部屋に文章を置き、通りかかった人が部屋に入って自由に読むことができる… そんなコンセプトで作られました。

たとえばしずインのユーザ同士でフォローする機能はない。読者が筆者を「こっそりフォロー」したり感想レターを送ったりする、一方向のアクションだけがある。濱野智史『アーキテクチャの生態系』で言われているような、ネット空間上での儀礼的無関心を維持する仕組みになっている。

そのようなシステムによってしずインの「しずか」さは保たれている…一方で、システムの外側にある文化・マナーの要素によっても「しずか」さは保たれているのではないか?言い換えれば、しずインは、その名前に「しずか」を冠することによって、我々に「しずか」であることを要求するともいえるのではないか? トイレの「いつもきれいに使っていただき(ありがとうございます)」という形容が、「きれいに使ってください」という要求を意味するのと同じ構造である。「『しずか』にしてください。ここは『しずかなインターネット』ですので。」かくして「しずか」であることをよしとする人たちが集まり、「しずか」に振る舞い、その結果システムの面においても、文化・マナーの面においても、「しずかなインターネット」が実現する。

たとえば、俺はRSSフィードで購読しているブログへのリンク集を公開している。鍵アカの匂いがするもの、プライベート感がありすぎるものは除外していて、しずインの日記も全件除外している。そういった「しずか」さへの配慮をそれぞれがある程度行っているのではないか。


「しずか」の反対側にあるものを仮に「わいわい」と呼ぶならば、次のように分けられるだろう。


おもしろい!って思ったらそれを伝えたくなる。SNSではあらゆる投稿に「いいね」が可能なので、「いいね」をする。事故。RSSは感想を送る手段を提供しないので、わざわざコメントしない限り、事故らない。5年以上読み続けているブログもあるが、相手はそのことを知らないだろう。俺が反応を送ることによって終わってしまうかもしれないし、誰からも反応されないことで終わってしまうかもしれない。どうしようもない。「推しは推せるときに推せ」という主張は推しが推されたいときにしか正当化されない。

ジレンマがある。しずかなインターネット全然しずかじゃないが指摘するように、サイト内にコメント機能があろうがなかろうが発見されなければ誰も読まない。さみしい。だから「わいわい」空間であるSNSに投稿する。

Blueskyのように検索やフィードによって発見可能であるならば、投稿へのリアクション(いいね)や拡散を一切できない種類の投稿がSNS上に存在してもよいと思う。もちろんそれは古のリンク集やwebringによってゼロ年代にはなされてきたのかもしれないが、それらはSNSによって随分弱くなってしまった。Twitter以後のSNSがTwitterの存在を前提としているように、20年代のSNSもまた個人サイトやブログ文化を焼き払ってきたことを前提とするべきであろう。

自分の方針として、フィードや検索経由で自分が勝手に・能動的に発見した日記のポストにはいいね含め何もリアクションしないことにした。Blueskyからしずインへのリンクは、「わいわい」と「しずか」の分水嶺といえる。で、そこを安全側に倒してその分水嶺はしずか側エリアだと思うことにした。


ところで、俺の記事はコメントされたりいいねされたりされると嬉しい。SNSでシェアしても晒し上げてもパクっていただいても大丈夫です。よろしくお願いします。