2026/08/20: 地図と領土
ミシェル・ウエルベック『地図と領土』を読んだ。主人公ジェドはアーティストで、ミシュランの地図の写真を撮りまくったり、現代的職業をモチーフにした絵を描いたりする。
そのミシュラン製十五万分の一縮尺の「クルーズ、オート=ヴィエンヌ」地図ほど素晴らしく、感動に満ち、しかも豊かな意味を蔵したものを それまで見たことがなかった。現代的精神の音質、科学的・技術的な世界把握の本質が、そこでは動物的な生命の本質と混じりあっていた。図は複雑で美しく、絶対的に明快で、限られた色の記号しか用いられていない。しかし、それぞれの規模がわかるように示された小集落や村のいずれからも、何十人かの人々の生、何重、何百という魂—あるものは地獄に堕ち、ある者は永遠の生を得る—のさざめきや呼び声が伝わってくるのだった。(p41)
こういう嗜好に理解、共感できるところが結構ある。中学生の頃は自分でノートに架空の地図を書いていた。Wikipediaではフランク王国の領土の変遷GIFを眺め、歴史の教科書ではナチスドイツの占領地域の急拡大とあっけない崩壊を何度も見届けた。中国の戦国時代の群雄割拠や、チンギスハーンの世界最大のモンゴル帝国には興味がなかった。このころからヨーロッパかぶれだったのかもしれない。YouTubeでAlternative Future of Europeという動画シリーズがあって、仮想のストーリーで地図が塗り替わっていくのをひたすら眺めていた。ストーリーはあってないようなもので、実際にはただ国境が左右に揺れるのを眺める変なシリーズだった。いまでも世界中のナードのうち無神経な一部を虜にしている。第二次大戦を舞台にした戦略ゲームHearts of Iron 4は地図のUIがとてもクールで、それが塗り替わっていくのを眺めるのが、戦略を練ることに比べてずっと楽しかった。都市開発ゲームCities: Skylinesでも、道路やビルの設計は雑に進めて、マウスでぐりぐりと行政区画を引き、そこに名前をつける時間が一番わくわくした。スマホに入っているFog of World(世界の霧, DPZの紹介記事)では、Google Mapの上に薄い霧がかかっているが、GPSで通過した部分だけが晴れていく。新しい場所に行くときには起動しておいて、霧が晴れていくのを合間合間に眺めている。とはいえ、作中で主人公ジェドのそういった傾向は変化することとなる。
文章に挟み込まれる話題もとっつきやすかった。他の作品だとユイスマンス(誰それ?)の話を延々としたり、途中からスピリチュアルな量子力学的なsomethingへと話が加速のち離陸していったり、ここはよくわからんなあというのが多かったが『地図と領土』はかなりそういう瞬間が少ない。人物の参照はあるがみんなわりとポピュラーである。ル・コルビュジエとかファン・デル・ローエとかなら俺でも知ってる。もしかしたら実際に自分がパリやチューリッヒを訪れたのも、何かしら読みやすさに貢献しているのかもしれない。
6年前ぐらいに『セロトニン』でウエルベックを知って、以来『素粒子』『服従』を読んだ。どれもよかった。基本的に鬱っぽいおじさんが出てくる。他にも邦訳5,6冊出ているので、実は半分も読んでいないことになるし、もっと彼の本を読んでいる友達を知ってもいる。しかし自分にとっては、同じ筆者の本を3冊以上読むのはかなりレアなことだ。さっきから「自分にとって」を連発しているが、あんまり自信がないということだ。好きな作家の話をするなら著作は全部読んでないとダメじゃね?みたいなふうに思ってしまう。そんなことないのにね。
ウエルベックと村上春樹はリラックスして読める。リラックスして読めるのは大事なこと、もしかしたら話がおもしろいということと同じぐらい大事かもしれない。残念なことに自分にとっておもしろくて、なおかつリラックスして読める小説は少ない。おもしろいけど疲れる小説や、リラックスできるけどおもんない小説はたくさんある。
こういった「リラックスして摂取できてかつおもしろい作品」を探すのがこと小説やアニメにおいては難しい。大抵のストーリーには緊張と弛緩がある(ドラマといったほうがいいかも)。緊張する、感動するということに抵抗がある。ましてや感動させてあげますよ、スカッとさせてあげますよと明示的に言われようものならすぐ逃げる。通路をまっすぐ行って階段を降りて一旦ホーム階に出た後そこで反対側のエスカレータを登るとワオ感動。これぐらいあっけないのがいい。なんの話やねんコレ、と思いながら読み始めたいのだが、一方でページをめくらせるほどの好奇心を緩やかに刺激されたい。緩やかということとか変わっているのだが、単にストーリーが薄い・遅いということでもない気がする。わからん。音楽も何か歌の力とやらを使って必死に何かを伝えようとしているのが伝わってくると止めてしまう。
電気グルーヴ楽曲のレーベルによる配信自粛問題について論じた『音楽が聴けなくなる日』で、宮台真司が「アートとは人を傷つけるものである」と書いていた。そんな気もする。しかしそういう傷つく可能性に自分を開く体力とか勇気というのはどこからやってくるのだろう。たとえば一穂ミチ『スモールワールズ』は途中まで読んで積んでいる。読んでいておもしろいけどきついなあ、と感じる(傷ついた、ということだろう)。やはり生物学的な再生産の可能性というのは重大な意味を否応なしに帯びている。そういった再生産の可能性がないBLだって、ラブストーリーなので結局はある程度疲れるはめになる。そこそこの元気があるときに読む。ストーリーの次元から退却して、なんかひたすらいちゃいちゃしているのを読もうとするとpixivの短編漫画、あるいはポルノに行き着く。が、リラックスできてもおもしろさがついてこないことが多い。
感動させられる、外から傷つけられる、他者の主張や感情に主導権を渡すのを恐れているかもしれない。エゴが大きいというのだろうか。世界に圧倒されるのを恐れているからブログを書くのかもしれない。
逆にストーリーがないものだと、Wikipedia、ドキュメンタリー、あと最近はやたら経産省の資料を読んでいる。資源エネルギー庁の電力市場設計にまつわるスライドとか、CPTPPの近年の発展(イギリスが加入したのをすっかり忘れていた)についてのスライドをペラペラ眺めている。小さい頃に家に大量にあった絵本も読まずに、ITパスポートの過去問解説とか読んでいるような子どもはこうなる運命だったのかもしれない。