スイスにいる
交換留学でスイス西部のローザンヌに来ている。今年の8月中旬から来年の2月か3月ぐらいまでいる。もうこっちに来てから3ヶ月も経ってしまった。具体的な話は次回以降書くとして、ここでは動機についてまとめておく。
昨年10月のとある金曜日にメールをもらって、履修登録をミスって留年しそうであることが発覚した。その危機は週明けにあっさりと回避されたわけだが、その週末は結構「単位はほぼあるので、留年したら暇だけど、どうしようかなあ」とずっと考えていた。
1年遅れるのはまあいい。学費ももともと自分で払ってない。でも研究はそこまでしたくもない。働きたくもない。よく知らない。 …留学生が俺に聞いた。You are an undergraduate right? 4th grade? うん、俺はB4。もう一回B4をやるかもしれないB4。
そのころ、以下のような印象が同時多発的に立ち上がってきていた。
- 東京に来て2年半、もうかなり行き詰まっている。ここから動いて悪くなることもなかろう。身体のあらゆる窓が閉じていって、暗さ、臆病さ、無気力さがかなり表層まで出てきてしまっていた。それをなんとかしたかった。サイコロを振り直したかった。
- 『東京物語』を観た。東京は冷たいところだ。
- 『ダンス・ダンス・ダンス』を読んだ。どこかに行って俺もデータを取ってこようか…。
- バイトの面接で、ウン十億円稼いでるおじさんと、職業としての明るさ について話したあと、「東京は暗いよねえ」みたいな話を延々した。それでその場で 明るく 落とされて(業務内容がややミスマッチだったのでそれはいいんだが)、日本橋のあたりをテクテク歩いてからビル群を振り返ると、大きな疎外感に囚われた。
- あんスタのイベント曲やりながら「ときめく方を正解にするんか〜」とか考えてた。
そういう出来事が頭の中でぐるぐる漂っていて、留年危機という圧力がかかると、一気に留学という考えに結晶化した。それを「留学に行きたくなった」と呼ぶのもなんか違う気がするが、一度はっきりと形が見えると吸い寄せられていった。まったくもって論理的ではない。
後日、工学部の窓口に「東京飽きたんで、どっか行きたいんですわ」と話に行ったところ、書類を渡された。現実逃避のつもりで空欄を埋めていくと、いつの間にか派遣が決まっていた。もちろん先述の印象をそのまま応募用紙に書いたら困惑されるので、別途「留学に行きたくなった」人が書きそうな文章を提出した。それはそれとして、結晶化する前にどんなことを考えていたか、本音を記録しておきたかった。
不思議な話である。美術館みたいだ。なんとか家を出て上野まで行って学生証を見せればあとは一方通行で2, 3時間芸術漬けになれる。一方、ファッションとか観光を頑張る人らは、何から何まで自分で決めなくちゃいけない。俺にはそこまでの自由度は乗りこなせない。自前で箱根に行くより、制度でスイスに行く方がある意味簡単なのである。
留学は挑戦と書かれがちだが、今回のケースは逃走あるいは治療と捉えている。メンツを立てつつ海外でぼんやりしている。高専卒で就職するよりは大学に編入するほうが簡単だったし、このまま東京にとどまるよりも一旦出るほうが簡単だという確信があった。
あくまで楽なほうに逃げ続けている。そう言い続けておかないと、だんだん変な空気になってきて、ニセの自分がそれらしいことを言い始めそうで怖い。挑戦したフリして自分を大きく見せることもできるだろうが、それはあんまりやりたくない。
逃走なので恥ずかしくて、スイスに行くことはあまり誰にも言っていなかった。必要もないのに自分から「留学するんだよねー」って言ったの、家族と教職員を除けば1人か2人だと思う。大抵の場合は止むに止まれず、であった。
駒場の石井先生のインタビューがいいこと言ってるのでみんな読みましょう。
当時あのまま東京という「コンクリートの沙漠」に居続けることの方がわたしにとってはずっとたいへんだったはずなので、中国で暮らすことには喜びしかありませんでした。
SideMの10thライブに行って日本への未練がなくなり、その後すぐ病んで7月後半から研究室に行かずにひたすら三四郎池でくねくねしたあと、直前に「人間関係納め」として東京と大阪の友達一人ずつに挨拶した。仮に俺がスイスで死んたら、彼らにその日託した印象が俺の遺影となる…というようなことを考えていた。
別にダメだったら帰国したあとですぐ院ごとやめてしまえばいいし、せっかくスイスにいるのだから蒸発するなり安楽死マシンにでも入って人生もやめてしまえばいいんだ、と投げやりでもあった。今でも、部局や大学にとっては留学で送り出した学生の数が+1されることが、予算やTHE世界大学ランキングの国際性評価にとって重要で、そいつが派遣先で何をしてきたかに興味はないということを、折に触れて思い返している。