缶詰

2024/12/28: 年末、レポートとメールを書くことについて

意味から離れることを考えていた1年だった。記号操作。事務的観点。無意味なこともする必要があった。意味理解を避けて形から攻める。大きな図を見る。千葉雅也『現代哲学入門』『勉強の哲学』『センスの哲学』がそのへんの意識とマッチしていて、結局全部読んだ。あと村上春樹もまあまあ読んだ。今年も頭の中だけでいろいろ終わってしまった感じがする。諦めの範囲が広がったというか、「良くも悪くもならないだろうしなんでもいいや」と思ってしまう投げやり相対主義に浸かっていた。


23日が年内最後の締め切りだった。原稿のページが埋まんね〜〜と先輩と先生に泣きついてた。まれに来る先輩の香水と、毎日来てる先輩のワックスの香りが混ざってお線香の匂いとなり(※個人の感想です)、暖房を介して居室をぐるぐる循環していた。俺の原稿のお葬式がもう始まっていた。なんとか9時半に提出成仏した。忘年会一次会は行けなかったけれど、居室にビールを持ってきてくれたので長いのを2缶ほどもらってガーッと喋って、汚い文章のことを偲んで忘れた。曰く、酒を飲むと3倍しゃべるらしい。四十九日…じゃなくてちょうど一ヶ月後に口頭発表で南の島に行く。

23, 24, 26日に食事に行った。予定を入れすぎてしまった。やはり25だけは予定がなかったので、担当の新曲聴いてニヤニヤしてた(オタク〜〜)。同時多発的に、まわりの人間が結婚したり恋人を作ったり同棲したりしている。オセロの盤面がバタバタひっくり返っていくのを見ているようで、おおーって思う。感心している場合じゃない!かも。血のつながっていない特定の他人を建前としてでも愛するということがよくわかっていないし、そういうことを必要だと感じている人で東京駅の丸の内側のイルミネーションエリアがあっさり埋まってしまうことも不可解だった。おそらくそこには自分の知らない無数の前提と妥協があるのだろう。そういうことをまとめた新書があればいいんだけど、検索しても俗っぽいのしか出てこなくて困っている。

27はゆっくりしようと思っていたがなんかあちこち動き回ってしまった。時間の使い方が下手。で、28日にちょっとだけバイトしようと思ったらその日は土曜日だった。曜日感覚もなくなっている。かと思えば29-1/4は家族旅行でせわしない。相談室で「旅行行くんですよね〜」と言いながらカレンダーに目をやると、横一列がすべて旅行期間なことに気づいてのけぞってしまった。一人でだらだらすごしてえ〜と思っていたのだが、難しい。贅沢な悩みなんだろう。


以下はちょっと前の話です。15日ぐらいかな。


機械学習(Machine Learning)というより奇怪学習(Magical Learning)。原理をまるでわかってない。なんかこういうとき「深く理解するのがよい」「原理から理解するのがよい」みたいな正義感を初手で持ってしまうのだけれど、じゃあ深く理解しようとして1から作り始めていると、単に時間が足りない。なんでもかんでも理数の授業的な積み上げ・スタック的イメージを持ってしまうのは良くない。ある程度になってくれば論文のようなネットワーク構造で考えたほうがいい(cf. 『読んでいない本について堂々と語る方法』)。それから主要なノードを取り出して、方向づけて、直線構造にしたのが理数の授業体系だと思っている。


この作業は何らかの価値につながるのか、という質問が頭の中にちらつくようになった。その価値とは、研究室のミーティングで俺がしばかれないように守ってくれるもので、そのことを通して俺を安心させてくれるものである。いわばピュアな意味での学術的価値とはあまり関連がない。価値というとうさんくさいのだが、そのうさんくささをひっくるめて価値と呼んでいる。そういう意識の下で、たとえばリファクタリングのしすぎは避けたり、相談のためのたたき台をこまめに作ったりしている。進捗を刻んで小出しにするのも一種の本質的な作業だと思う。問題を分解するのもまた問題であって、いろいろな解が考えられる。

どこまでやれば許されるだろうか、みたいなことを考えてしまって、なんだかなあ。主導権を相手に委ねていることになる。少しでも楽しくやりたいなあ。厳しくやっても楽しくなってもそんなに効率は変わらない気がする。研究のことを書いていると「誰それはもっと進んでるんだろうな」とか「これを読んだあいつはどう思うだろう」と、不安になってしまう。


学会にいると「みなさんプロだからどんどん質問してくださいね」と指導教員からSlackが入る。そうかなあ。結局チキって質問できなかった。あららら。で、なんかついでに 良い進捗報告のやり方 を読み直して謎にへこんでしまった。なんもできてねえ。

自分は何のプロなんだろう?うーん、最寄りのまいばすに入ってラムネないしはようかんを掴んで決済して退店するまでの速度は負けない気がする。あるいはしょっちゅう言っている気がするが、ブログを書くのは「こういうことを書いている人がまわりにいないと思っているから書く」というところがある。もちろん言語圏や他のコミュニティには似たようなことを書いている人はいるんだろうけれど、実際問題としてそことつながるのは案外難しい。検索エンジンができたかと思えばSEO対策で薄味なブログばっかりになり、AI技術のおかげで言語の意味を特徴量として扱えるようになったかと思えばLLMでもっと薄味な記事が書かれる。

かしこい人なら一瞬でできちゃうようなことを一年とかかけてやってるわけだが、それはそういうものなんだろう。1人で100できる人はたまにいるし、1しかできない人はたくさんいるけど、全体的な量として1000000ぐらい必要なので、後者の種類の人間も居るだけ役に立つのだろう、と考えて自分をなぐさめている。「天才はスケールしない」って、誰が言ってたんだろう。


金沢の研究会が終わった。白子の天ぷらが美味しかった。白子は魚の精巣らしい。俺の精巣もこれぐらい美味くなるなら喜んで去勢されるんだけどな。すでに社会的に去勢されてるようなもんだが―というようなことを本気で言い始めるとちょっとまずい。おいしくない。魚はそんなひねくれたこと言わないから精巣までおいしいんだ。しらんけど。

どこか遠出すると、たいてい写真を撮ってと頼まれたり、道を聞かれたりする。その日は東京に戻る新幹線でベトナムかタイの人に指定席券を見せられて、その番号の座席まで案内した。ぼんやりした顔をして、ぼんやりした服を着ているので話しかけやすいんだと思う。実際ちゃんと暇人で、英語通じるし老婆心あるし、見る目あるなあ。


今季取っている授業はレポート課題が主だ。外部講師を毎回呼んできて話を聞いてその感想を書く、みたいなやつ。毎回違う会社や研究所からいろんなおじさんが出てきて、同じ話をして帰っていく。

レポート課題をイヤイヤでもやれる人が多いのだろうけれど、自分はイヤイヤしてたらやらなくなってしまって、たくさん単位を落としてしまった。イヤイヤしていたのでは書けない。スライドを右往左往して、何を書けばいいのかさっぱりわからなかった。脳が、出涸らし。なんとかしようと思っていろいろ試した。おおむね次のようなことに気をつけていると、少しは書きやすくなったし、ちょっと楽しくなった。

Linuxは、ブート時にマシンの物理的なノイズを取り込んで擬似乱数/dev/urandomを生成する。それと同じく、自分も起きてからなんとなくどこかからエントロピーを取り込むようにしている。もともと置きてすぐニュースを見るクセがあったが、欧州が荒れてきたためにBBCもなんかお涙頂戴みたいな記事が増えてきてエントロピーよりも悲しみが速く増えてしまう。それで『富士日記』を少しずつ読むことを始めた。適度におもしろくない。娘の日記はかわいい。

唯一の非おじさん…お兄さん外部講師は、自分の高専時代の後輩だった。この大学の講義としては尖った話をしてくれてよかった。当てられるんじゃないかとヒヤヒヤした。もうバイナリと戯れる気持ちはなくなったが、あのときの講義内容が少しでも糧になっているのなら、無意味ではなかったのだろう。てか昔の情研の資料、たまに凝ってるのがあっておもしろいな。


夜にメールを書く。酒を飲む。怖い怖い怖い。文章は拙くない。ただ中身がない。送信。タブを閉じる。寝る。どうしてもダメならスマホで書き直す。やはり誰も僕のことを考えていないということを知る必要があった。人の心を類推しすぎである。


AIが彼氏ってやば〜みたいな声もあるが(ぼくは人外攻めも良いと思いますよ)、思っていることのほとんどを人に言えないものだと思う。でもそれはしょうがない。「え、あいつAIにお悩み相談してるんだプギャー」みたいな嘲笑をしているといずれお互いの首を絞めることになる。むかし落合陽一が「ロボットに介護されたいですかって聞くと、冷たそうでいやだなあという反応が返ってくる。でもこれは問いがよくなくて、じゃあ人にトイレでおしり拭いてもらいたいんですか?と聞くとそれはそれで嫌だ」みたいなこと言ってたなあ。


大学にきたらまず適当な椅子に座ってノートに思っていることをつらつら書いてガス抜きをする。だいたい10分ぐらい書いたら飽きるので、本を少し読んで、タスクリストを更新してから研究室に行く。研究室の机に座ったらPCのバッテリが満杯でもACアダプターを出して、ノートを使わないかもしれなくてもノートと筆箱を出して…という具合に、作業前の準備みたいなところを、多少非効率に思えても、固定するように心がけている。慎重に生きている。