2024/11/23: 書き散らす、言い散らす、聞き逃す
自分でも何の話をしているのかよくわからないというか、わかろうとする気持ちがなくなってきた。わからないまま声に出す。話題をなにかにカテゴライズしても、だいたいそのカテゴリがいずれ邪魔になってくる。だからこそタグとかリンクとか別の機構が生まれたわけだけれど、それ以前に情報を恣意的に区切ることの限界を感じている。川喜田二郎『発想法』でいう「大分け」になってしまうし、その情報を「小分け」にするのすらめんどくさい。あれこれ小分けにしてリンクしたところで、別に新しい発想出てこなくない?という気付きもある。
そして恣意的に選択したことは、修正の可能性に開かれている。一方でやむにやまれずそうなってしまったものについては、それをひっくり返そういじくり回そうという気にならない。たとえば投稿日時は選べない。データがサーバに移動した日が投稿日時。おわり。後者のような、勝手に決まっていく感じが出る、人間と対置される「自然」の仕業と思えるような部分を増やしていけば、うじうじ考える部分は減りそうだ。諦めのための仕掛け。
文脈(空間、生活、ツール)を前提に中身が生まれてくると思う。だからいろいろな文脈で「書き散らす」方向に進むほうがいい気がしている。その結果整理もほとんどできていないし、書いたこともほとんど思い出せない。自然に任せっきりである。
研究のメモなんかも、基本はScrapboxだが、タブレットにペンて手書きすることもあるし、紙の上に万年筆を滑らせることもある。一方でレポートやら要旨やらでLaTeX・Wordを用いて整理された書類をつくることもある。一応、理想の一部としてTiddlyWikiのカードっぽいUIがある。粒度を細かく、左右に並べて比べたり、共通する部分をまとめてみたり、そういうことをもっとやりたいという理想がある。自分の抱く理想があまり精度の高いものではないことも知っている。システムの総合的な使いやすさと、理想への近さという観点ではScrapboxに軍配が上がる。
紙は消せないのが良い。書いてしまったことは書いてしまったことのまま。そして見方によってはコンパクトでもある。ちょっとしたメモは軽く、密かに持ち運ぶのにも良い。好みの文具だと書くのも楽しい。これはこれで大事なことだ。どうせうまくまとまらないので、はじめから落書きするモードに持っていけるのも良い。日々のあれこれを書いたノートが6, 7冊ある。このブログ以上にストレートな記述が多いので人に見せたくないわけだが、結構思い入れがあるらしくて、捨てられていない。自分の字を見ると、こいつ生きてんなあって思う。自分以上に。それに比べるとTwitterアカウントが凍結されかけていろいろ吹き飛んだのはわりとどうでもよかった。バックアップをどこかに作った気がしているからだろうか。でもバックアップも過去のノートも実際に見返すことはほとんどない。どこかに置いてあるという感覚がキー。
自分の研究の場合、結果はほとんど図と表で表される。コードを書き進めて見失ったときに、どういう図を最終的に見せたいのかをよく紙にスケッチする。軸は何で、どういう単位があって…。そのあと、そういうスケッチにつながるはずのコードで扱っている情報の流れを思い出そうとして、グラフ(DAG)を書いてみる。細かい作業をしているとすぐに忘れてしまうのでしょっちゅう書く。それをどこかに常に貼っておくというよりかは、わからなくなったときにゼロから毎回書いている。それはあえてやっている。指差し点呼のノリ。
それでも気づけば視野狭窄に陥る。近づきすぎずに広い視野を保つ全体を見続けるための胆力のようなものと、全体を何らかの方法で縮減して視野に収めるための道具(中間的な図、抽象化、UI)があると嬉しい。そういう練習をするにあたってはプログラムや文章よりも絵とか写真のほうが適している気がする。カメラの小さなファインダーを覗いたり、あえて鍵盤じゃなくてギターを使ったりするのも単に技術的な制約の他に、何らかのそうした縮減の役割を担っているんじゃないかと思う(カメラとか楽器とかやってる人、教えてください)。それを単なる障害だと思って、コンピュータに移植するときに全部とっぱらってしまうと、自由度が大きくなりすぎて使いづらくなる。映画や音楽は時間性を伴うので、また別の考え方を求められそうだ。「詩書礼楽」ってなんで「詩書礼画」じゃないんだろうね。
人間と話す機会が多い。人間と話さないことで回復するゲージと、人間と話すことで回復するゲージがある。いろいろと考えさせられることもあるけれど、どうやってもフェアに書ける気がしないのでやめとく。人といると人のせいにしてしまいたくなってきて、それがつらい。人間がかかわる葛藤を一種の天災、自然の仕業だと思うと気は楽になるし、問題を切り分けやすくなる。それを諦めと呼ぶんだろうか。
初動として、視覚的・聴覚的にある程度静かで、刺激を制御できるような場所に移動するとよい。大通りを避ける。人を避ける。なるべく画的にのっぺりした空間とか、暗くてよく見えない場所に行く。
最近は新しいことがないし、なんか脳がおっさんになってきたのか、気づけば日常の記憶がエピソードとして、語りに適した状態でしまわれている。飲みの席とかではそれを引き出して擦りまくれば無難に時間が過ぎる(高専寮のあれこれ、段ボール輸送作戦、ゴミと間違われてカラスに首を持っていかれそうになった話etc)。
ただ、やっぱり一回性がないと悲しいので、なるべくまとまらない話題も織り交ぜようとしている。会話のキャッチボールのなかでいきなりそのへんの石を投げるようなもので、だいたい話のノリが壊れる。ちょっと頭がおかしいと思われるかもしれないが、これは自分なりの敬意とか信頼の証だと思ってやっている。逆につるつるした話を滔々としてるときは人数が多すぎたり、データが足りなかったりして予測が立てられていないか、相手に(そういうゲームについては)期待していない。あるいは単に疲れている。
どういう石なのか説明してみる。ブログではまず「俺が思っていると自分で気づいていること」を列挙していく。つらつらと書いて温まってくると、言うことがなくなって一旦止まる。で、頭から読み直したり過去のドラフトをみて思い出したりしているうちに、どこかで
- 「俺が考えていることは、正確ではないだろうけど、こういう言い方もできるんじゃないか?」
- 「こういう言い方があったときに、俺の脳に対応する問題意識があるだろうか?」
- 「いい言い方だ、ここからが今日の本題になるんだ!(ならない)」
といった感じで、エネルギーが凝縮された文字列、スローガンが浮かんでくる。この記事なら「自然」「変な話を敬意としてする」「小分け」「事務としての研究」「声を信頼してない」「諦めのための仕掛け」とかかな(ちょっと元のワードを残してないのでわからない)。ブログならそういうのをまずは仮の石として置いて、広げていくという形で書くわけだが、その最初の石を話題転換として口頭で投げている。逆に、話す相手がブログの読者だとわかっていればそういう石は耐えられるってことなので、ポンポンいらんことを言う。
暇なほうが好きだ。というか忙しいのが嫌いだ。みんなそうだと思っていたがそうでもないらしい。忙しさはタスクの量で決まるわけだが、何時間先までのタスクを考慮に入れるかで変わってくる。その時間は人によって違う。直観的には自分は向こう1週間=168時間のことを考えている。それより先のことは体感できない時間性にあるので、カレンダーやらリマインダやらを使って合目的的な焦りとか期待をつくろうとしている。でも全体的な生活に現実味がないのがそもそもまずい気もする。俺が現実を見ようとしていない点もある。現実味がある生活って、どんなんだろう?
人間が発する音声を文字に起こすのがずっと苦手で、声による言語コミュニケーションを信頼していないところがある。どことなく「口で喋ってるってことはこの中身は聞き取れなくてもなんとかなる程度の情報なんだな」と値踏みしている。それは自分から話す場合も同様で、読者の一部は知っているだろうが、口で話すときはだいたい何かしら茶化した感じを挟んだりつまらん冗談を飛ばしたりしている。うまく聞き取れないことと音声の軽視がどちらから始まったかは、もう忘れてしまった。
外食の場面や、何気なく話しかけられるとき、BGMの大きい空間にいるときや、考え事をしているときに話しかけられると聞き取れないか、誤った聞き取りになることが多い。聞き取り(感覚→知覚)の段階では常にデコードのエラーは生じるもので、それに文脈や記憶の情報を使って修正するのが当たり前だろう。普通は無意識的に行われて、修正が済んだ文字列が意識に上ってくる。ただ自分の場合はなぜかだいぶぐちゃぐちゃな文字列とか、全然わからない黒塗り文書が上がってくるので、そこにさらに半意識的な修正を加える。疲れてると半意識的な修正をするのが面倒になってきて、ぐちゃぐちゃな文字列をそのまま聞き返して笑われる。あんまりそういうのが連続すると、ときどき、笑いやら関心やらを引くために、自分の意識の深層でわざと勘違いをしているのではないかと疑心暗鬼になって余計疲れる。
限られた認識からデコードエラーを修正して、求められる行動をするテクニックを(全部明晰に理解しているわけではないが)身体が持っているらしい。たとえば、電車のアナウンスで「みぎ/ひだり側のドアが開きます」というのがある。一番大事な「右/左」という情報が文章の先頭にあって、ぼけーっとしていると聞きのがしてしまう。「…開きます」ぐらいのところで「え?どっち?」となってしまう。こういうとき、たいてい次のようなイメージだけが耳に残っている。◯は認識できなかった子音で、゛は濁音を示す。
- 〇i〇゛i〇゛a〇a (みぎがわ migigawa)
- 〇i〇゛a〇゛i〇゛a〇a (ひだりがわ hidarigawa)
なんか拍が多かったな、とか、濁音→非濁音→濁音の流れがあったから、「ひだり」かな、みたいな形ベースの判断をしている。
全体的な意味がほとんどつかめない場合でも、意味理解を諦めてしまい(実にAI的だ!)、質問への回答、謝罪、同情など、どういう行動が求められているのかだけ求めればよい、とハードルを下げると、声の調子からそこそこ判断できる。特に謝罪や同情については、別に聞き取れたところでいい返事ができるわけでもないから、むしろ堂々としている。もっとマルチモーダルな判断をすることもある。場面と文脈を考えて、相手の顔を見て、声の調子も振り返って可能性を枝狩りして…みたいな。ここまでくると理想的なノンバーバルコミュニケーションにも見えてくるが、あくまでそうしないとなんにもわからないのでそうするだけである。
まあこれくらいなら「言われてみればそういうことをやっているなあ」と共感されると思っている。ただ騒がしい場所だと2分に1回ぐらいそういう判断を迫られるというだけの話なのだ。この頻度や聞き取れなさを意識する度合いが、平均と比べてどれくらい離れているのかはよくわからない。みんなはなから話を聞いていなくて、どうでもいいのかもしれない。診断を下ろすとすればやはり主観的に「生活に困っているか」というわけだが、文字コミュニケーションも発達してるし、なあ…。判断に疲れるから飲み会行かないという判断もないわけではない。機会損失はあるかも。
一方、こういうテクニックは外国語の学習にもおそらく一役買っている。フランス語は、どういう長さ単語の列があっても、音としては一定のリズムを刻みたいという気持ちがあるそうだ。リズムを守るために、liaisonやらenchaînementを使って発音をいじっているところがある。だから向こうの耳がわるい人たちはまた別の原理で推測をしているんだと思う。
低い声は聞き取りづらい。自分の声も低い。ウソみたいな話だが、自分で発した声もよく聞き取れないことがある。まったく言語にならないってことはないんだけど、発話前の「なんかこういうことを思ってた気がする」というふんわりした記憶の糸や、顎まわりの筋肉の感触をたどり、さらに発話後の相手からの応答を使って、その間で「たぶん俺はこういうことを言ったんだな」という観念を更新していく作業が生じる。
書くだけ書いて投稿してないドラフトが多かったので雑に投げる。雑にとか言ってはみるけど、実際は箸と段落を上げ下げしまくってる。細部にとらわれるのはよくない。そんなところに神はいないし、いたとしたらそこはそもそも細部だと思っていることが間違いなんだ。それは認知の問題、見るときの軸のとり方の問題である。
(2024/08/06)最近は刀剣乱舞の、花丸のほうのアニメを見た。アニメには苦手意識が強いのだけれど、全体的にほんわかしていて、25分の中に大まかに独立した2つの話があるというフォーマットは見やすかった。もう俺これとヘタリアとアニエムで生きていくしかないのかもしれん。でもやっぱりキャラクターが萌えるとかかっこいいとかそういうのもかなりないと見ていられない。強欲。アイナナは話重かったけど全員顔良すぎて見れた。映画とか小説での自分の嗜好とはまた違っている。
ストーリーのあるゲームをいくつかやってる。ゲームやるというよりストーリー読むだけのもある。アイナナ・(最近の)SideM・スタレのメインストは正座して見る枠です。このあたりのコンテンツのファンコミュニティをメディア論とか認知科学で説明する本もちらほら読んでみている。『動物化するポストモダン』とかも積んでたな。
『ルックバック』を観た。前半といえばいいのかな、上手な子が描き始めて筆を折った小学生の主人公が、実はその上手な子の憧れだった、ってところの、主人公の反応には馴染みがあった。主人公も別に下手なわけではなくて、漫画に欠かせないストーリーが、上手な子の漫画には備わっていない(風景が主体)んだけど、それも小学生の脳みそを恐怖と嫉妬で圧迫すると見えなくなるもんだよな〜。後半で、私のせいだ云々みたいなノリが出てきたところで「え、そうなの?」と思ってしまった。
(2024/7/19)抽象こねこねが、つらい。バイトも研究もプログラム上の抽象を、データの形(型)を左から右へと変換していく行為の列にすぎないと感じている。現実味がない。「ドキュメントがしょぼい謎のコードを読み変換する」みたいな作業が多い。読むのは好きだけど、それをベースに自分のものを作って評価を受けないといけないのはなんだかめんどくさい。遺跡を掘るのは好きだけど、掘った結果何も見つからなかったら俺がシバかれるってのはいやだ。
『プログラミング入門』で、「関数の形(引数・返り値の型)を決めれば、中身はほぼ自動的に決まる」というようなことを言っていた。Copilotはまさにそれをやってくれる。すなわち、自分で関数のシグネチャを書けば、中身はそこそこの精度で中身を書いてくれる。こうなると我々の仕事は関数の(中身ではなく)形を考えるということに尽きてくる。むしろリファクタリングのためにコードをいじることが多くなる(Copilotの機能をうまく使えばリファクタリングも楽にできるんだろうが、なかなか使いこなせない)。Copilotが書きやすいような粒度の関数をデザインすること、それは結局「コンピューターに適切に指示をする」という点では変わらない。
結局、自分がそんなにやりたくもないことをさせるために指示しているという点が苦しいのだろう。プログラミングのウェイトが減って、その分ドメインや目的への関心が問われるようになってしまっている。コードを書いている間は、何のためにコードを書いているのか忘れていられたのに。
基本的に研究もデータを左から右へ、右から左へと流すだけである。図を作って指導教員に投げるといい感じの方針(プロンプト)が学生に降ってくるのでそれをコードにして…の繰り返し。どういう形のデータがほしいかを考えるだけなのにどうしてこんなに時間がかかってしまうのだろう。別の言い方をすれば、事務だと思っている。技術的にはつまらんが、なんか、事務作業としてのおもしろさを見いだせないかと考えながら潰していって、気を紛らわせている。
1年と数ヶ月取り組んでいたタスクがふんわり終わった。こんなに長くかかってしまって、アホらしいな。これもコーディングよりもコミュニケーションの問題なんだろう。しかしSlackでできることは多くない。
『関心領域』を観た。壁そのものはずっと見えるように撮ってあるのに、だんだん壁の内側に慣らされてくる感覚が奇妙だった。数字・生産性・環境への執着の描き方が、先月読んだ『ナチスは良いこともしたのか?』の記述を思い出させる。 川で遊ぶシーンがお気に入り。夜に動くレジスタンスの少女がサーモグラフィを介してぬるぬる動いているのに気を取られてしまった(空港とかに置いてあるのって時間的にも空間的にも分解能低いじゃないですか)んだけど、少女を「光」として対置する意味がちゃんとあったらしい。はえ〜。アウシュヴィッツはいつか行きたい。あまり気分転換にはならなかった。そりゃそうだ。
ネットワーク工学概論は、研究室のミーティングと被っていたのを忘れて試験に行かなかった。情報セキュリティもレポートの提出期限を間違えて単位落とした。でもなんか、どうでもいいな、と思ってしまっている。いつか大変なことになりそう。2024/11/22追記: 結構大変なことになってる!