缶詰

2024/03/22

帰省した。律される感覚がある。内在化された規則の象徴としての家族。そろばんの先生は14年前とほとんど変わらない様子だった。感覚はメタファーを介して認識される。そろばん教室のドアを開けたときの匂いは、それ以降の匂いを表現するときの基底のひとつとしてこびりついて、自分の知覚を規定している。


ノートPCはファンが回っていなければ全く音を立てないのに対して、デスクトップPCは常にファンが回って音がする。これがタスクへの没入を妨げていて、精神にとって悪い気がする。


年相応のことをしていない、思春期というといいすぎだが、実年齢-2,3歳くらいのところで乗り越えておくべき課題・状況に対峙しているという感覚がある。そういう課題を実年齢-2,3歳のところに勝手に割り当てているものが何なのかは、わからない。昔から年相応のことなんかしてこなかったので、今さらどうというわけでもない。ただ、気づけばそういう二つの量(年齢と行動)を結びつける観念が心に形成されて、それを一蹴できないで時折眺めてしまう。自分のこともままならない。


こんなにブログばっかり書いて、暇なの?暇だ。なんの予定もない。週6時間のバイトだけ。暇すぎて自責の念にかられるとか、そういうことはほとんどない。やることがあるときほど「こんなタスクも片付けられずにだらだらしていて、カスだな〜」とぼやいている。なんもしていないときほど自分がえらいな、って思ってしまうのは直観に反しておもしろい。タスクを全部片付けて自分をほめたくなる気持ちはあんまり湧かないし、それが湧いたときも、タスクがあるときのネガティブな気持ちがなくなってゼロになっただけ、と考えると、暇なときの満足感とつじつまが合う。


書く、というか現実を抽象的な記号(言語)空間に落とし込んで、そこに操作を適用する(=考える)のが好きなんだろう。現実のリッチな空間で見えてこなかった一手先のことを思いつけると気分がいい。一方でかなり単調な文章になっている側面もある。何かを思いついて書いてみて、そこから展開していくときの気分は、何かを証明するときのそれに近い。ただ証明と違うのは、(何かを書きたいと思うから書くとはいえ)前提があまりはっきりとしないし、結果(証明したいこと)はそれ以上に未知である。とりあえず前提を展開してみて、満足するような言葉が出たらそこで一旦終わり、ということにしている。展開したくなるような前提を探す作業を通じて、自分にとっての関心と問題を思い出そうとしているともいえる。


急ぐ言語化、待つ言語化