缶詰

2024/03/20

また気分を変えて bearblog.dev に書くことにする。楽しそうな道具があるとどうしてもそちらに向かってしまう。もうどうしようもない。同じツールを使い続けるよりも、それぞれの遺産・足跡を残す(あるいは残さない)ことを考えたほうがいいのだろう。


大学の寮に住んで2年になる。建物は新しいが設計がアホでつらい、という話をもういろいろな人にしてしまった。同じ話を何度も何度もしていて申し訳ないが、これ以外に話す内容がない。人に会って疲れたし満足したので、3月後半は大阪の実家に引きこもってぼんやり本でも読む。

東京は空が狭い。川越や宇都宮、あるいは地元の郊外に出て、はじめて気づいた。skyscrapers という単語の意味をようやく実感した。散歩しても気づけば空ばかり見ている。建物が低いので、相対的に自分が大きくなった、あるいは、もとの大きさに戻った気さえする。


『方丈記』を読んだ。この手の古典は実はかなり量が少なくて、手元の光文社の文庫だと原文は25ページほどしかない。それに翻訳と訳者のまえがきと解説とあとがきとエッセイ(!)と周辺のを加えて、なんとか本の厚さに持っていったらしい。鴨長明は草庵をこしらえたときに、わざと木をかんたんな留め具で固定して、いやなことがあったらさっさと家を分解して移住できるようにしていた。結局その草庵を持ち運んで移動することはなかったのだけれど、「いつでも動ける」という可能性そのものが良い気分をもたらしていた、と解説されている。そうだと思う。

『発心集』の「貧男、差図を好むこと」という章も載せられていた。差図というのは設計のことで、この男は理想の家の設計図を描くだけ描いて、決して実装することなく、満足していた。坂口恭平『自分の薬をつくる』にもほとんど同じ話があった。


よく頭のなかで「会話」をする。一人でずっと話しているから、会話というよりは説明に近いかもしれない。でもそれは日記を書くとは違って、「誰かに説明を求められて、いまは自分が彼に対して説明するターンである」という気持ちで話している。そういう意味で「会話」だと思っている。

歩いているときに「会話」はよく起こる。気を抜いていると、声とか表情の形で妄想がガッツリ外に出ていくこともある。なにか、これには自分が他人の興味・質問の対象になっているという虚栄心を満たしてくれるところがあって、そのためにこういう変な「会話」をしてしまうのではないか。そういう推論をしているから、自分はこの「会話」が虚栄心の発露としか思えなくて、話している間は楽しいけれど、直後に、またやってしまったなあ、自分の心が嫌いだなあと思う。文章を書いているときも人に説明するイメージを持っているのだけれど、目の前に思考の軌跡があるおかげで、「会話」のように嫌な思いをそこまでしなくて済む。自分と向き合っている感じがする。


実家の風呂が好きだ。あれこれ考えたことが自分の頭(うーん、つむじあたり?)からもくもくと出ていって、2m * 3m * 2mの浴室内を埋め尽くしていく。それが快感で、水面の上を考えでいっぱいにしたくて、いろいろ考える。しばらくしたら眺めてみる。とはいえ、最初のほうに何を考えていたか思い出せるわけでもない。そんな妄想をしていると、すぐ30分、お湯がぬるければ1時間と過ぎていく。家族が心配してドアの外から声を掛ける。

露天風呂や大浴場だと、他の人がいてそちらに気が向かってしまうし、空間が広すぎて考えが湯気と一緒に空高くに飛んでいってしまうように思える。もちろん開放感があったり、人と話したり、裸の知り合いと同じ風呂に入っていることをあらためて不思議に感じたり、そういう楽しさはある。


映画『PLAY!』を観た。阿南高専が出てくるという理由だけで誘われた。e-sports部の話。しょっぱなの授業のシーンでRLC直列回路の回路方程式が出てきて笑いそうになった。機能不全家庭とか、恋愛の要素が入っていたが、それがどういう意図で入れられているのかよくわからなかった。夜食の食パンとか、友達がやっとできたオタクとか、そういう描写は妙にリアルだし、そういう後輩を何人か知っている気もする。部のリーダー格が医務室で悔しがるシーンが結構好き。自分も部長をやっていたので、彼に共感しやすいところはあるだろう。

『PERFECT DAYS』も観た。言葉が少ないのが心地よかった。画がきれいだなーと思って、ふんわり感動して、なんとなく良い気分になった。言外のところにたくさん意味が込められていて、自分はやっぱりそれを読めていないんだと、インタビューなんかを見ていて思う。劇中の平山が首都高に入るとき、スカイツリーに一瞥をくれる。そういえば、自分の父親が単身赴任していたとき、通勤の途中によくスカイツリーを撮っていた。


成績の発表があって、それにしたがって研究室が振り分けられた。高電圧工学研究室になった。情報系のテーマもないではない。計算科学とかデータ科学とか、そういう範囲になりそう。「卒論だからどうせなんとか卒業させてくれるでしょ」と楽観を装いつつ、ごまかしきれない落胆と不安がある。発表前後の数日にたまたま人と会う機会が多かった。どうもナーバスになっていて、あまり大したことない不安不平不満をおもしろくない仕方でこぼしてしまった。ダメだな。メンタルが弱いというか、どうしようもないことを不安がる癖が、全然治らない。

ありきたりな表現だが、居場所がない、という言葉も現状を説明している。40人のクラスは居場所になりうるが、120人の学科はいわば都市だと思う。そこに1人で立ち向かうのは、渋谷のスクランブル交差点にコタツを置いて誰かが入ってくるのを待つようなものだ(このたとえばあまり良くない)。

電気系は志望してなかったので院試で取り返そうぜ!と肩を叩かれるけれども、そこまでパソコンを叩きたいかというと、実はあやしい。プログラミング言語やOS、LSIをつくることに対して、もうそれほど強い熱意を抱いていない。ドナルド・ノーマンの書籍を何冊か読んでいたし、インタラクションデザインみたいな話に興味が傾いているのかな、と思った。IIS-Lab(メディア・UI系)の見学のときに、「何か興味のあることはある?」と言われて、とっさに「たまに日記を書くんですけど、キーボードで書くときと、紙にペンで書くときで傾向が違っている気がして、それはなんでだろう?と思います」と口走った。けれど、別に何かを作ったわけでもない(わずかにやろうとして、1週間でやめてしまった)。

何か生活に役立つソフトウェアを作りたいと思うことはあった。家計簿とか、スケジュールとか、そういうの。でも、それはつまり生活をやりたいということでしかなかった。

自分も所詮wannabeなんだと思う。言い換えれば、コンピュータ自体を目的としてそれを研究するほどのモチベーションを持ち合わせていない。それはしょうがないので、wannabeなりにどう切り抜けるかということを考える必要がある。正直どうすればいいか、わからないが、誰かと楽しくやっていくことは助けになる。あと、一般的な研究のプロセスを体験したいとは思っている。費やす時間と成果が(少なくとも短期的・ミクロに見て)比例しないワークにおける快楽・困難・心構えを知っておくのは、後の知的労働においても役には立つんじゃないか。

SecHack365, seccampで知り合った人が、友達といえる人々の半分近くを占めている。首都圏に移住して彼らと頻繁に会えるようになったのは嬉しい。だが会って技術の話をすることはあまりない。何をやっているのかと聞かれても、何もやっていないので困る。友達ではあっても、同志ではなくなってしまった。別にそれはそれでかまわないのだろうけれど、身近なところに同志がいなかったために、wannabeな自分のモチベーションはしきい値を下回った状態が続いているわけだ。そして、モチベーションが上がらないので同志を探す気力も生まれないし、手を動かさないので潜在的な同志に見つけられる可能性もなかった。


CTFはもはや焼肉になった。一緒に肉を焼くように、一緒に旗を取る。コンピュータの技能の研鑽なんてのは建前になってしまって、誰かと一緒に何かに取り組む、コミュニケーションを介した力の結合によって高揚感を引き出すための道具にすぎない。それも、悪いことじゃない。目の前の対象とやり合うために必要なモチベーションの量を、対象自体への興味からだけではなくて、もっといろいろなところ(就職への希望・諦めあるいは反発、承認欲求、社会的関係・所属への欲求、外圧etc)からかき集めてくる必要がある。いまの自分はそれがうまくできていない。

数学物理よりも語学あるいは文系のほうが向いてる?そういうifを考えはじめたらきりがないので、あまり考えないようにしていたし、以前はそれがうまくいっていた。若い頃にもっと雑多な活動をしていたら、結局何にも向いていないということがより腹に落ちたかもしれない。


現在の意識を使って行動を起こして、それによって将来の無意識を勘違いさせるという配慮をしたい。